古代ギリシャ
ソクラテス
古代ギリシャで、ソクラテスによって哲学という営みが始められました。
もちろんそれ以前にも、世界の成り立ちを説明するために、ソクラテス以前の哲学者たちが哲学を行っていたのはたしかです。
でも、明確に哲学という概念が生まれたのは、ソクラテス以降といっていいでしょう。
ソクラテスは批判的に検討することで、物事の本質を暴き出すという哲学の手法を確立しました。
具体的には、「無知の知」に基づく「問答法」によって、決して知ったかぶりをすることなく、相手に質問を繰り返すのです。
そうして相手の口から答えを導かせます。
たとえば「自由とは何か?」と問えば、相手は「好きなように振る舞うことだ」と答えるでしょう。
でもその答えに対して、「皆が好きなように振る舞えば、自分の思い通りにならなくなるよ」と反論したらどうでしょう。
おそらく相手は、「それなら、他人のことにも配慮しながら自由に振る舞うことだ」と答えるのではないでしょうか。
たしかに、私たちのいう自由は、決して好き勝手に振る舞うことではなく、他者との関係性、社会という枠の中で許されたことを行うことですから、この答えはより本質に近いような気がします。
この答えは、問答法を通じて相手が自分で見出したものなのです。
これは相手のいる場合ですが、一人で物事を考える時も同じだといえます。
知ったかぶりをせず、自分の知識に謙虚になって、自分自身に問いかける。
哲学思索はそうして始まります。
ソクラテスによって誕生した哲学は、弟子のプラトンやそのまた弟子のアリストテレスに引き継がれます。
プラトン
プラトンはイデア説にて、物事の本質はこの現実の世界ではなく、むしろ理想の世界にあるといいます。
だから、目の前の現実にごまかされていては本質が見えないというわけです。
アリストテレス
アリストテレスは逆に、現実にこだわりました。
特に彼の共同体論とそこにおける倫理は、物事の本質を考えるうえで私たちに現実的な視点を提供してくれます。
彼は物事のほどほどの状態を意味する「中庸」を重視しました。
中世
中世に入ると、キリスト教が幅をきかせます。
したがって哲学の役割も、いかにキリスト教と哲学を融合させるかという点に重点が置かれます。
ここではアウグスティヌスとトマス・アクィナスという二人の哲学者を押さえておけばいいでしょう。
アウグスティヌス
アウグスティヌスはプラトンの二元論的世界観(世界は理想と現実の二つに分かれるという考え)をキリスト教の世界に援用しました。
トマス・アクィナス
トマス・アクィナスはアリストテレスの目的論的世界観(もともと現実の中にある可能性が、目的に向かって成長していくという考え)をキリスト教の世界に援用しました。
近代
デカルト
近代に入ると、まずデカルトが「我思う、ゆえに我あり」という言葉と共に「私」の意識中心の哲学を発見し、それを徐々に発展させていきます。
言い方を換えると、主観と客観が分離されたわけです。
その際、「私の意識はどこから来るのか」をめぐって、デカルトに端を発する大陸合理論と、ベーコンあるいはロックに端を発するイギリス経験論が対立します。
ベーコンとロック
ベーコンは生得的観念(人間が生まれながらに持っている知識)を認めようとするのに対して、ロックはそれを否定します。
知識は生得的なものではなく、経験に基づくと考えるからです。
そうした対立を和解に導き、近代哲学の金字塔を築き上げたのが、ドイツの哲学者カントでした。
カント
カントは現象と物自体という二つの次元で物事を認識すべきことを訴えました。
つまり、人間に認識できる世界とそうではない世界があると主張したのです。
そうして時間と空間という分類や、カテゴリーと呼ばれる物事を認識する際の分類表を提示したのです。
その後、カントの影響を受けた哲学者たちがドイツで活躍し、ドイツ観念論という一派を形成しました。
近代哲学の中心地はドイツだったといってもいいでしょう。
その完成者といわれるのがヘーゲルです。
ヘーゲル
ヘーゲルは物事を発展させる弁証法(マイナスをプラスに変える)という論理を使って、人間の意識を最高に高めたのです。
その後、頂点を極めてしまった哲学という営みは、ヘーゲルに対する批判から再出発します。
社会主義を唱えたマルクスや、自分で道を切り開くという意味の実存主義の先駆者キルケゴールなども挙げることができます。
現代
そして哲学は現代思想の段階に入っていきます。
現代思想とは、「私」の意識を中心とする近代の哲学を乗り越えようとするプロジェクトにほかなりません。
物事を構造の中で客観的にとらえようとするレヴィ=ストロースの構造主義は、その入り口にあるといっていいでしょう。
具体的には、現代思想は近代の後という意味でポストモダンと呼ばれます。
近代までの哲学が「私」の意識を中心とした、一つの確固たる答えに向かう傾向にあったのに対して、現代思想は必ずしもそのような一つの答えを求めようとはしません。
反対にそうした傾向を危険視し、バラバラのままで、つまり差異をそのままにしておこうとするのです。
フランスのデリダやドゥルーズなどがその旗手といえます。
現代思想はフランスの時代でした。
もちろんフランスだけという意味ではありません。
たとえばドイツでも、テオドール・アドルノが否定弁証法という概念を掲げ、物事を一つにまとめようとする弁証法に抗して、差異を差異のままに生かそうとする思想を提議しました。
このほかにも二十世紀後半以降のアメリカを中心としたリベラリズムなどの政治哲学や、明治以降の仏教と西洋哲学を融合させた日本の哲学も知っておくとなおいいでしょう。
大事なのは、こうした思索の歴史の上に、私たちの思考の営みも横たわっているという事実を頭の片隅に置いておくことです。
一目でわかる哲学史
古代ギリシャ | ソクラテス➡ 無知の知、問答法 プラトン➡ イデア説 アリストテレス➡ 現実主義 |
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中世 | アウグスティヌス➡ プラトンの二次元論的世界観をキリスト教に援用 トマス・アクィナス➡ アリストテレスの目的論的世界観をキリスト教に援用 |
近代 | デカルト➡ 生得観念論 ロック➡ 経験の重視 カント~ヘーゲル➡ ドイツ観念論 マルクス➡ 社会主義 キルケゴール➡ 実存主義 |
現代 | デリダ、ドゥルーズ➡ ポストモダン アドルノ➡ 否定弁証法 アメリカの政治哲学➡ リベラリズム |
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